女の歌

最近のトラックバック

website

Powered by Six Apart

ディスコグラフィー(アルバム)

  • <small>木枯しの二人 伊藤咲子  歌謡デラックス</small>
    アルバムのディスコグラフィー。すべてサッコ本人のコメント付きです。

<big><b>ディスコグラフィー(シングル)</b></big>

  • <small>(番外)セブンイレブンファミリーソング「友達になろう」(非売品)</small>
    シングルのディスコグラフィー。すべてサッコ本人のコメント付きです。

« 2006年6月 | メイン | 2006年8月 »

2006年7月

欽ちゃん

最初、テレビのワイドショーを見て「えっ」と思った。某人気お笑いタレントの不祥事に責任を取り、タレントが所属する欽ちゃん球団を解散するという。野球キチの私としては、‘何もそこまでしなくてもいいのに・・’と思ったが一応の欽ちゃんのけじめのとり方なのだろう。欽ちゃんこと、萩本欽一さんといえば、いわずと知れたお笑いコメディアンで、坂上二郎さんとコント55号で、高度成長期の、あの凄い突き出た時代に一時代を作り上げた大スターである。数多くの番組に出て、司会、お笑いの舞台、バラエティなどに多数出演、そして演出家でもある。昭和40年代半ばから、50年代終盤まで、欽ちゃんがテレビに出ない日はなかったくらいに活躍された姿を記憶の中でもはっきり思い出す事ができる方は多いと思う。

その数多く出演された番組の中で、私たちサッコファンとしては忘れるはずがない番組はいうまでもない『スター誕生』だが、その初代司会者として番組の礎を築いた第一人者である。私も欽ちゃん時代は、スタ誕を、ほとんど欠かさず見たものだ。歌い終えたばかりの明日を夢見る若い子に、審査員のお偉い先生達が、ちくりと辛口批評をする、あるいは容赦なく辛辣に批判する。見ていて気の毒に思った事もあったほどだ。そんな先生方に、やんわりと嫌味がなく「先生、そこまで言わなくたっていいでしょ。せっかく頑張って歌ったんだから、そこんとこの気持ちも考えてやってよ~」と欽ちゃん。真剣な先生のお言葉に、欽ちゃんのこのアドリブ。苦笑いする先生達。考えようによっては番組をぶち壊していないでもない欽ちゃんなのだが、そこは欽ちゃんの人柄で、先生達と相対する態度でも、妙なアンバランスが逆にバランスよく番組が進行されて、楽しくわくわくしながら見る事ができたものだ。別の司会者が先生達にそんなアドリブを言えるはずもなく、言ったとしても食って掛かっている態度に見えるだけだっただろう。

その欽ちゃんを、これも人柄からきてるのかな、と思われるシーンがあった。確か欽ちゃんが番組を降板するという事で特集があった時だったと思う。スタ誕から巣立っていったタレントが番組に結集し、欽ちゃんに一声かけて見送るという場面での事。山口百恵さんの番になった時、あの百恵さんが泣いている。人目もはばからずにしゃくりあげて、声をあげているようにも見えた。百恵さんの立っていた場所は観客側から見て一番左端か、その隣かだったと思う。これは珍しいと思ったのかモニターでも彼女に焦点を当て、アップにしたので尚更あの時の印象が強かった。正直、私も百恵さんがあのような感情を表に出して見せたのは以外だったし、軽いショックだった。新人賞などでもめったに涙を見せる人ではなかったし、少し不器用そうで芯が通っていそうな彼女が、パフォーマンスであの涙はないなと思ったからだ。きっと心の底から湧き上がる感情を抑えきれずに素直に流れ出たのではと思う。デビュー前から百恵さんを見てきたし、個人的に話もしたかもしれない。欽ちゃんの卒業が寂しくてだったのは本当の気持ちだろうと思うが、その当時、交際していた三浦友和さんの事などこれからの事で悩んでいた百恵さん自身と重ね合わせて一気に感極まったのだろうか。父親が不在で育った百恵さんにとっては、欽ちゃんがある意味、父親を感じさせてくれる人物であったのかもしれない。そこまで感じるには欽ちゃんの相手をほっとさせてくれる人柄や、言葉は粗末でも、相手の心を不快にさせず、愉快に楽しくしてあげたいという思いやりがある、持って生まれた真のエンターティナーなのだろう。

球団解散宣言から数日後、解散は撤回宣言をして無事に球団は存続する事に翻った。最初の解散宣言は、流石の欽ちゃんも勇み足かなと思ったのだが、これは欽ちゃん流にけじめをつけたのと同時に、ファンのために皆が喜ぶ野球をしたいために球団を作ったのに、その夢をぶち壊してしまって、ファンに申し訳ないというお詫びを込めた決断だったと思う。しかし、その後、地元球団に住む地域の方たちの署名運動や、欽ちゃん本人、所属事務所へのたくさんの封書やメールなどで、フッと欽ちゃん自身が解散するのが良い解決策ではないと考え直したのであろう。永続して皆が喜び楽しんでくれればいいという思いがあればこその判断であったと思う。解散宣言から、こんなに早く、やっぱり続けますったってなぁなんて声が、あるそうだが、そこは欽ちゃんの愛嬌で許してやってほしい。(って私があやまるのもなんだが、なんとなく欽ちゃんの気持ちがわかるような気がするので・・)
<災い転じて福となす>この諺をこの件で、朝の某ワイドショーで使っていた有名ジァーナリストがいたが、そうなってくれればいいと切に思っている。頑張れ欽ちゃん!

某サイトにて サッコの見解Ⅴ 『願い』

(中崎あゆむ「ナツメロ喫茶店」 http://www.geocities.jp/cultmandu
何がサッコに起こったかより 

>中略・・水商売に転向したり、再デビューを繰り返したが、「ひまわり」はついに・・・

サッコが芸能界を引退したと聞いて、ガックリときたのは私ばかりではなかったと思います。その後、スナックのママさんとして働いていたのはファンでなくても周知の事実。その後はますますサッコを遠い存在として感じたものでした。思い切って一度でいいからお店へ行って、サッコに会ってみたいと考えたりなどしました。会釈して、「どうも」の一言くらい言葉をかけて、彼女の新天地での働きぶりはどんなものか、この目で見てみたいなんて思ったりもしました。でも、少し怖い気がしたし、だいいちあんなにスポットライトを浴びて光り輝いていたサッコがお店に本当にいるのだろうか、と不安に思ったものでした。お店の名前すらわからなかったし、場所もどの辺か調べる術がなかったしね。

しかし、しかし我等がサッコちゃんは戻ってきてくれたのです。十数年が立ち、光輝くばかりにあのサッコスマイルで、また私たちの前で、マイクを握る決心をしてくれたのです。このサッコ復活を、まだ知らない人が私の回りでも多少いますが、要はこれからです。少しずつ、少しずつ焦ることなくマイペースで今サッコの世界を創り上げていってもらいたいと思います。

>サッコは1976年一回だけだが紅白歌合戦に出場していたのである。

前回、‘紅白’の話題に触れました。‘紅白’に出場するばかりが歌手の方のすべてではないかもしれません。しかし、私はもう一度でいいから、あの晴れ舞台で歌うサッコをぜひ見てみたい思いでいっぱいです。彼女は‘紅白’に、1度出ただけで終わるような歌手ではないと思っています。ポップス系の常連として、何度出場してもいいほどの逸材であると思うし、それだけの力量は持ってるはず。人生何が起こるかわからないもの。何がサッコに起こったか。(起こってほしいか)はい、大きなチャンスがサッコに起こってほしいと願わずにはいられません。

広島のひまわりグッズ

Svfsh0011Svfsh0012 先日、広島市の五日市(いつかいち)にあるデパートの2階にある本屋に立ち寄ってみたら、天井にずらっとひまわりグッズ(?)がぶらさがっていました。(売り物ではありません)「これ下さい」という勇気はありませんでしたので、携帯で写真を撮っておきました。(左)ご覧下さい。ちなみに、子供の本コーナーにはひまわり(普通の造花)が飾ってありました。ついでに写真を撮りました。(右)

※上記、美咲さんのお言葉です。やはり夏といえば、「ひまわり」ですねぇ。デパート内でもひまわりグッズが並ぶと‘涼’を感じます。真夏のぎらぎらする日差しを浴びて、凛として咲いている花なんですけどねっ!

某サイトにて サッコの見解Ⅳ 『選曲の難解』

美しき誤解、実力派の罠より

>その歌唱力には定評があったし、実力派として、ずっとずっと歌って行けそうな雰囲気が漂っていたものだ。 しかし、この美しき誤解こそが決定的な敗因だった。

これは私もそう思っていた一人で、次の曲はどんな曲かなと、いつも楽しみにしていました。輝きながら歌っているサッコの姿が、永遠に続くものだと思って信じて疑わなかったんです。ところが、ところが・・・

>「私はこういう難しい歌も歌えるのよ~、ラララ~♪」とばかりにいろんな曲調に挑戦してゆく。

>彼女の本質を見抜いてデビュー曲を与えた阿久悠でさえ、彼女の資質を誤解してしまうのだ…。名曲だがオーバーな表現に鼻白む「乙女のワルツ」など、その骨頂だ

これは全く彼女の責任ではなく、ご本人が言っておられるように、『何が私に起こったか』あたりから、あの天下の阿久悠先生、三木たかし先生でさえ試行錯誤しながらサッコにどんな歌を与えたらいいか、迷いに迷っていた時期だったのではないでしょうか!?『乙女のワルツ』の頃とその翌年は、多分サッコの歌手人生の中で最高潮に忙しかった頃だと思います。この年、私はサッコが『乙女のワルツ』で‘紅白’に80%ぐらいの率で出られるんじゃないかと思ってました。ところがこの年は、あえなく落選。そして次の年の『きみ可愛いね』で出場。‘紅白’の出場基準は今でこそ問題が多くて何でこの人が?という人が出場して訳がわかんないとこがありますが、当時は今よりずっと厳格で、型にはまったところがありました。素人の私が言うのは間違っているところがあるかもしれませんが、現在の‘紅白’はその年に売れた曲でなくても前年から引き続いて売れ続けている曲、あるいは印象深く思われている曲ならば、歌っていいはずだと思います。しかし、『きみ可愛いね』の頃はその年にヒットした曲という規則があったのではないでしょうか?この頃の規則がなければ、そして本人が選曲できるならば、多分サッコは『乙女のワルツ』を選んだ気がするし、私も歌ってほしかった。

規則があったかどうかは別としても、NHK側が『きみ可愛いね』を選んだ理由としては、その年のヒット曲だったのはいうまでもありませんが、「ひまわり娘」と似た流れの曲を歌ってほしかったのではと私は推測しています。あくまでもNHK好みの明るく、さわやかで、清純なイメージの曲にしてほしかったと考えての選曲だったような気がします。というのはNHK側としてはサッコのデビュー時のイメージが頭にあったのではないでしょうか?サッコの見解Ⅱ ‘たら’‘れば’でも書きましたが
>④<デビュー曲が『ひまわり娘』でなく、『木枯らしの二人』路線から入っていれば・・デビュー時のイメージは相当印象に残るもの。もうサッコには一生涯このキャラクターがついてまわるでしょう。しかし、デビュー時の、このキャラが相当強いため、世間一般の皆さんは・・  中略  木枯らし・・から入っていれば、また違ったサッコ像が創り上げられていたのかもしれないと思うのですが・・

上記引用しました。『木枯らしの二人』がデビュー曲だったら、紅白では「乙女のワルツ」が1975年にすんなりと選ばれていたのではないか、と私は見ているんです。『ひまわり娘』や、『きみ可愛いね』などの可愛いチックな少女っぽい歌も女性アイドル歌手にはもちろん必要ですが、それらはどこかの曲と曲の途中にポイントとして入れておき、あくまでサッコは実力派歌手としてのイメージを一般的なファンの方達にも最初から植え付けておいた方が、大きくイメチェンをする時の苦悩が少なかったのではないでしょうか。そして途中で引退をする事無く、サッコらしさを失わず、長~く歌手生活を続けていられたんじゃないか、そして、『何が私に起こったか』以降の完全に大人の女性を意識した曲も、一般のファンにももっと受け入れられやすかったのではないかと思うのは、私の一方的な窺い(うかがい)すぎでしょうか!?

>岩崎宏美ぐらい上手かったら、桜田淳子ほど一生懸命頑張れたら、きっとA級になれたのにね、サッコ。

中崎氏はこう語っています。こちらもサッコの見解Ⅱ ‘たら’‘れば’で述べましたが、岩崎宏美と肩を並べるぐらい上手いですよ(これは今サッコの歌を聞いてみれば明白)桜田淳子ほど一生懸命頑張ってますよ(淳ぺーと似て、ややオーバーアクションなところがあるサッコちゃんは、むしろ頑張りすぎるところがあるし、ファンサービスも旺盛で、20数年ぶりにサッコステージを見た私はとっても感激しましたよ)と、私は声を大にして言いたい思いです。またも次回続きます。

※今回は、どうまとめあげて話をもっていったらいいか悩んでしまいました。皆さんからの反対意見も大いにお待ちしています。(笑)それにしても歌手という仕事を職業にしておられる方、またその歌手に携わっている方々は、選曲というものがいかに難しいものか書きながら考えさせられました。その時代やその歌手のイメージに合った曲、それがその後の歌手人生を大きく左右してしまうほど、大切で重要な物であるとつくづく思った次第であります。

某サイトにて サッコの見解Ⅲ 『新人賞レース』

(中崎あゆむ「ナツメロ喫茶店」 http://www.geocities.jp/cultmandu

またも、‘たら’‘れば’になりますが、サッコのデビューが淳ぺー(失礼ながら今回こう呼ばせていただきます)と同じ年だったら・・あるいはヒロリンと同じ年だったら・・なんて思う時があります。その中間にデビュー(’74年)した新人は、<不作の年>と中崎氏は語っていますがはたしてそうでしょうか!?少しばかり引用させていただくと、麻生よう子、浅野ゆう子、荒川務、あいざきしんや、城みちる、テレサ・テン、西川峰子、小坂明子、中条きよし、中村雅俊さんなどの名前を並べてみると、結構みなさんビッグではないですか!新人歌手としてヒットしたのは小坂明子、中条きよしさん等が活躍されましたよね!その他は女優、浅野ゆう子さん、俳優、中村雅俊さんなどお馴染みの方が現在、大活躍されています。よって、この年の新人は、ぱーとした大きな華々しさというより、地道にコツコツと歩んでいく後の実力者が多かったと思います。前年の淳ぺー、翌年のヒロリンの活躍が華々しすぎただけに、お忙しく資料をご覧になった中崎氏が<不作の年>に思われたんでしょうか!?

>サッコのデビュー曲は、シュキ・レヴィ(シュキ&アビバの人)という人による作曲。けっこうヒットしたし、あのメロディーとサッコの笑顔は、人々の心に残り続けているはずだ。しかも第弾「夢みる頃」と合わせてロンドン・レコーディングという、あのころのアイドルとしては快挙というか、まさに鳴り物入りの大々的デビューだったのに...。なぜ、なぜ...。プロダクションの力とか、芸能界の醜く汚れた部分のせいなのか

>いや。実は、不可解に見えたレコ大の人選だが、これには裏があった。当時のレコ大の対象は、日本人の手による楽曲に限られていたのだ。このへんは西城秀樹1979年のメガヒット「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」がノミネートされなかった経緯と同じ(注・秀樹は別の曲でノミネート)。うーん、これが、サッコの悲しいB級アイドル的人生の始まりかも。

またも引用させていただきました。う~ん!レコ大こそ、上記の理由で逃したかもしれないけど、結構数々の新人賞も取っているんですよ、とおしえてあげたくなっちゃいますね。でも悔しさが残るのは、某新人賞で、取りそこなったあのサッコの一瞬の、悲しそうなお顔はまだ覚えていますね。私も悔しかった!

疑問に残るのは、なぜサッコの事務所側が、デビュー前にレコ大の人選は、日本人の手による楽曲に限られている事を把握しておかなかったのか?鳴り物入りの大々的デビューだったのはおおいに結構な事ですが、セールス面やデビューの形にこだわりすぎて、年末のショーレースの規則などは事前に調べられなかったのか、調べてなかったら、単なる事務所側のミスというところなんでしょうが・・・こちらも悔やまれてなりません。が、翌年の日本テレビ、金の鳩ショー受賞は嬉しかったですねぇ。事務所側も、鬱憤を晴らしたような気分だったでしょうね! またも続きます

某サイトにて サッコの見解Ⅱ ‘たら’‘れば’

‘たら’や‘れば’は、過ぎた事に対しての、いい訳のようで、あまり多用したくはないのですが、ことサッコに関してはたくさん使いたくなってしまいます。例えば
①<中三トリオの存在がなかったら・・スタ誕の顔イコール中3トリオのイメージが強いですからね。後を追うようにデビューしたサッコですが、ガッチリ固定したバリケードを打ち破るほどには彼女たちに追随できませんでした。それでもあの当時にしてはだいぶ健闘したとは思います。しかし、トリオの存在がなかったら、サッコのポジションは、もっとスポットが当たっていたのではないでしょうか>
②<逆にサッコが中三トリオのメンバーだったら・・半分人気が確約されたようなものではなかったでしょうか>
③<デビュー時の所属事務所が違っていたら・・例えばあのホ○プロに所属していたら怖いものはない?サッコの復帰をこちらのHPに辿り着くまで知らなかった私のような者がいるかと思えば、森昌子さんの大々的な涙の復帰劇とはいかにも対照的。この違いは何?と言いたくなっちゃう。>
④<デビュー曲が『ひまわり娘』でなく、『木枯らしの二人』路線から入っていれば・・デビュー時のイメージは相当印象に残るもの。もうサッコには一生涯このキャラクターがついてまわるでしょう。しかし、デビュー時の、このキャラが相当強いため、世間一般の皆さんは、彼女の歌唱力の実力があるのはわかってはいるけれど、ひまわり娘の可愛らしいイメージが頭にあって、認めてはいるけれど、認めなくてもいいみたいな少し矛盾するイメージのまま、大人の聴かせる歌のイメチェンの時期が微妙にずれていってしまったのではないでしょうか!?木枯らし・・から入っていれば、また違ったサッコ像が創り上げられていたのかもしれないと思うのですが・・この考えには強い反感がありそうでこわい気がしますが>
⑤<容貌がもう少し見劣りしていたら・・聴かせる歌だけで勝負できたかも>
⑥<歌がもう少し下手だったら・・もちろん凄い歌唱力はサッコの真骨頂ですが、アイドル性だけでも充分いけたと思います。きっと、可愛らしい笑顔が素敵なサッコちゃんのイメージで、売り出していたかもなんて思ってしまいます。いつの時代でも、少しぐらい歌が下手でも、可愛らしさだけで存在しているアイドルがたくさんいるのは悔しいけど事実です。でもそんなタレントは歌では通有しないから、バラドル(もう死後かな?)として、バラエティ番組などに出ているか、あるいは演技力があれば女優としてドラマや映画に出て生き残っている人もいます。それも一部の人だけです。但し、この‘たら’に関してはサッコがならないでよかったと思います。いちばんありえない‘たら’ですね。歌が下手だったら、もちろん今サッコはありえなかったと思いますしね。私もサッコの歌唱におったまげてファンになった1人ですからね。>
⑦<淳ぺー、サッコ、ヒロリン(デビュー順)で、マジに3人トリオを組んでいれば・・・私も大好きな3人娘。中3トリオはデビュー順に、同い年という事で、スタ誕スタッフが番組の顔とイメージ、そして話題性という事で組ませたと思いますが、(当初はホ○プロが3人娘として、昌子、百恵、石川さゆりさんで組ませたかったとか・・)当時、仲が良くて明星の連載小説まで書き上げた3人が組んでたら、なんとにぎやかで楽しかったでしょう!私まで嬉しくなります。3人一緒だと、華もありますしね☆など等。

まだたくさん、サッコに関する‘たら’‘れば’はありますが、きりがないのでまた機会があれば上げてみたいと思います。

なぜ、この‘たら’‘れば’を思いついたかというと、前回リンクした、ナツメロ喫茶店の~カルトマンドゥ通信15『ひまわり娘が咲いた頃』を閲覧して考えたからです。

こちらのサイトを、批判などする気は毛頭ありません。批判、暴言、中傷はネチケットに反しています。しかし、WRITERの中崎氏がお書きになっているB級という書き出しにはちと疑問を感じました。巷ではA級、B級などという言い方をしているらしいですが、私はこの言い方は好きではありません。これはサッコをB級に当てはめて書いていたからそう思ったのではなく、誰もがビッグになる為、頑張っている人達に対してランク付けするのは失礼な気がするのです。ただそれだけの事ですが、いつからこんな言い方をするようになったのでしょうね!?中3トリオ等に比べれば、サッコの売り上げトータルは残念ながら及ばなかったかもしれません。が、歌唱力に関しては堂々のA級歌手だと思います。これだけは譲れません。(笑)次回続きます。

某サイトにて サッコの見解Ⅰ

約30年前には、数少ない田舎の情報源で、サッコのレコードや雑誌の切り抜きを集めていた私ですが、今となってはなぜ手放してしまったか悔やんでいる私です。私は特に、ファンクラブに入っていたわけではありませんでした。入りたくても、小学校から中学にかけてはお金もないし、入ったとして追っかけができる地域でもなく、たとえ追っかけができても血気盛んなお兄様たちと一緒に行動を共にするなんていう事は、素朴で気の小さい?初心(ウブ)な私が考えた事もありませんでした。このような状態で、昔のサッコの事は、思い出の中でしか語る事ができませんが、現在、サッコ関連の記事で、サッコ評なる物を見ると‘あぁなるほどな、こんな見方や考え方もあるんだ’と考えさせられる事が多々あります。
こちらのブログのコーナーの先輩‘KAZUKO’ちゃんも、もちろんそうですし、隊員の方達のサッコの情報源や、歌についての熱い思いを拝見しますと、とても感心させられてしまいます。その中で先日、ネットサーフィンをしていたら、見つけたサイトがありました。目敏いサッコファンの皆さんなら、とっくにご覧になっているかもしれませんね。

http://www.geocities.jp/cultmandu/ がトップページになってます。(リンクはトップページから入ってくださいとの事ですので、とりあえずこちらから入って)
http://www.geocities.jp/cultmandu/cult15/ayumu0015.html (こちらにたどり着いてください 笑 ご法度かな)

こちらのサイトのサッコ評について、私の考えや意見は次回から述べてみたいと思います。それにしてもタレントの1人ひとりの記事の膨大な事・・的確に、見事に突いてますねぇ~(フォントサイズが小さすぎるのだけは気になりますが 笑)