欽ちゃん
最初、テレビのワイドショーを見て「えっ」と思った。某人気お笑いタレントの不祥事に責任を取り、タレントが所属する欽ちゃん球団を解散するという。野球キチの私としては、‘何もそこまでしなくてもいいのに・・’と思ったが一応の欽ちゃんのけじめのとり方なのだろう。欽ちゃんこと、萩本欽一さんといえば、いわずと知れたお笑いコメディアンで、坂上二郎さんとコント55号で、高度成長期の、あの凄い突き出た時代に一時代を作り上げた大スターである。数多くの番組に出て、司会、お笑いの舞台、バラエティなどに多数出演、そして演出家でもある。昭和40年代半ばから、50年代終盤まで、欽ちゃんがテレビに出ない日はなかったくらいに活躍された姿を記憶の中でもはっきり思い出す事ができる方は多いと思う。
その数多く出演された番組の中で、私たちサッコファンとしては忘れるはずがない番組はいうまでもない『スター誕生』だが、その初代司会者として番組の礎を築いた第一人者である。私も欽ちゃん時代は、スタ誕を、ほとんど欠かさず見たものだ。歌い終えたばかりの明日を夢見る若い子に、審査員のお偉い先生達が、ちくりと辛口批評をする、あるいは容赦なく辛辣に批判する。見ていて気の毒に思った事もあったほどだ。そんな先生方に、やんわりと嫌味がなく「先生、そこまで言わなくたっていいでしょ。せっかく頑張って歌ったんだから、そこんとこの気持ちも考えてやってよ~」と欽ちゃん。真剣な先生のお言葉に、欽ちゃんのこのアドリブ。苦笑いする先生達。考えようによっては番組をぶち壊していないでもない欽ちゃんなのだが、そこは欽ちゃんの人柄で、先生達と相対する態度でも、妙なアンバランスが逆にバランスよく番組が進行されて、楽しくわくわくしながら見る事ができたものだ。別の司会者が先生達にそんなアドリブを言えるはずもなく、言ったとしても食って掛かっている態度に見えるだけだっただろう。
その欽ちゃんを、これも人柄からきてるのかな、と思われるシーンがあった。確か欽ちゃんが番組を降板するという事で特集があった時だったと思う。スタ誕から巣立っていったタレントが番組に結集し、欽ちゃんに一声かけて見送るという場面での事。山口百恵さんの番になった時、あの百恵さんが泣いている。人目もはばからずにしゃくりあげて、声をあげているようにも見えた。百恵さんの立っていた場所は観客側から見て一番左端か、その隣かだったと思う。これは珍しいと思ったのかモニターでも彼女に焦点を当て、アップにしたので尚更あの時の印象が強かった。正直、私も百恵さんがあのような感情を表に出して見せたのは以外だったし、軽いショックだった。新人賞などでもめったに涙を見せる人ではなかったし、少し不器用そうで芯が通っていそうな彼女が、パフォーマンスであの涙はないなと思ったからだ。きっと心の底から湧き上がる感情を抑えきれずに素直に流れ出たのではと思う。デビュー前から百恵さんを見てきたし、個人的に話もしたかもしれない。欽ちゃんの卒業が寂しくてだったのは本当の気持ちだろうと思うが、その当時、交際していた三浦友和さんの事などこれからの事で悩んでいた百恵さん自身と重ね合わせて一気に感極まったのだろうか。父親が不在で育った百恵さんにとっては、欽ちゃんがある意味、父親を感じさせてくれる人物であったのかもしれない。そこまで感じるには欽ちゃんの相手をほっとさせてくれる人柄や、言葉は粗末でも、相手の心を不快にさせず、愉快に楽しくしてあげたいという思いやりがある、持って生まれた真のエンターティナーなのだろう。
球団解散宣言から数日後、解散は撤回宣言をして無事に球団は存続する事に翻った。最初の解散宣言は、流石の欽ちゃんも勇み足かなと思ったのだが、これは欽ちゃん流にけじめをつけたのと同時に、ファンのために皆が喜ぶ野球をしたいために球団を作ったのに、その夢をぶち壊してしまって、ファンに申し訳ないというお詫びを込めた決断だったと思う。しかし、その後、地元球団に住む地域の方たちの署名運動や、欽ちゃん本人、所属事務所へのたくさんの封書やメールなどで、フッと欽ちゃん自身が解散するのが良い解決策ではないと考え直したのであろう。永続して皆が喜び楽しんでくれればいいという思いがあればこその判断であったと思う。解散宣言から、こんなに早く、やっぱり続けますったってなぁなんて声が、あるそうだが、そこは欽ちゃんの愛嬌で許してやってほしい。(って私があやまるのもなんだが、なんとなく欽ちゃんの気持ちがわかるような気がするので・・)
<災い転じて福となす>この諺をこの件で、朝の某ワイドショーで使っていた有名ジァーナリストがいたが、そうなってくれればいいと切に思っている。頑張れ欽ちゃん!
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